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大江戸は雪景色
今年の春は遅くて いつまでも寒かった 例年なら年末からちらほらと咲き出す片岡の梅林も 今年は蕾が堅く未だにちらほらなのだった 学者はこの寒さの原因として 大陽の活動が不活発な時期に入ったこと 人類の活動による温暖化を打ち消すほどの 寒冷低温の時代-小氷期に向かっているのだと説明しているのだった さて 昨日のテレビは しきりに 明日の東京は雪だと繰り返していた そして 今朝のテレビは都心の降る雪を映し出していた 都心ではヒートアイランド現象もあってさすがに積もりはしないが 郊外は白一色の雪景色なのだった それでも春が 25日から奈良市美術館で開催している「奈良市展」に行った 展示されている作品は 名のある審査員が審査した作品ばかりだから カルチャー教室の展覧会のように 見られて恥ずかしいような作品は一点も無いのだった 奈良市のアーチストもこんなに層が厚いんだと驚くばかりだった 27日に大阪湾と瀬戸内のイカナゴ漁が解禁になった 奈良は海が無いけれど 泉南や兵庫からイカナゴが送られてくる ジャスコではキロ1600円で売っていた テレビでは浜ではキロ1000円で売っていて 5キロ買って今日はこれから釘煮を炊くという主婦を映していた 寒くても 春は確実にやってきているのだ ジャスコの天理店に行ったところ めかぶらを売っていた 1パック300円ほど 中身は例年の半分も無い わかめの産地である三陸が津波でやられて 養殖もやっと再開したばかりという しばらくは水産物は高値が続くのだろう 買って帰って 刻んでゆがいて晩飯は「めかぶらとろろ」にした えもいわれぬ春の味だった 数日前から体調が悪い 鼻汁がずるずるし目がしょぼしょぼする 家内に聞くと家内もそうだという 花粉情報では花粉の飛散は「少ない」とあるのだが どうも春日の山の神杉の花粉が飛び始めたようだ これからしばらくの間 憂鬱な季節が続くなぁ ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-29 10:07
一語一会 宮本幹太展
昨日はデンタルクリニックに予約していた日だった クリニックは朝9時半からの診療開始なのだが 患者は9時頃から もう詰めかけて待っているのだった 皆思いは同じ 早く済ませてそのあとにすることがあるのだった しかし 私も家内も他にはすることもなかったので この朝一番の混雑が終わってからにしようと ゆっくり構えて 11時近くにクリニックに行ったのだった そしてその狙いは的中して 待つことなしに診療して貰えたのだった 一旦家に帰って 昼食を食べてから買い出しに奈良ファに行った まずは近鉄の書籍売り場で文庫本を買ってポケットに入れ それから いつものように五階の画廊に行ったのだった 画廊では「一語一会 宮本幹太展」をしていた そして会場には作者 宮本幹太氏がいた この人の作品を見ていると 何故かいらいらしてくる 画面にはきれいな線が引かれ 美しい色が塗られている しかしながら心に訴えて来るものがないのだった 画風に対する好き嫌いもあるのだろう 多分装飾画的なこんな絵が大好きという人もいるのだろう しかし私は好きになれないのだった 現代の日本の先端的アーティストには 村上隆氏や 奈良美智氏がいる この人たちの作品もほんとに芸術の名にあたいするのだろうか ポップアートのキーワードは 通俗的 一過性 消耗品 安価 大量 若々しい しゃれた セクシー 見掛け倒し 魅力的 大企業 だという たしかにこの中には「芸術」あるいは「芸術的」という言葉が抜けてはいるなぁ ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-28 09:10
ブログのポット的使い方
ときどき あなたのブログを見てますよと声を掛けられることがある 殊に一昨年は古文書教室のことを書いたりしたものだから 教室の同好の人たちから声を掛けられることが多かった しかし違うんだなぁ目的が あなた方に読んで貰いたくて書いているのではないのですよ とは言いたくても言えないのだった 仕事の都合で老父母と離れて暮らす子供たちが多い 我が家でも子供たちはみな独立して家を出て行った 残されたのは老夫婦だけ 老夫婦といっても60代はまだ元気だった しかしそれが70代80代となると大分あやしくなった そう 年寄りというものは なにかのはずみで怪我をしたり病気になったりするものだ お茶を淹れようとポットを持ち上げると それが電機信号となって子供のところに伝わるというポットがあると聞いたことがあるのだが 私のブログはまさにそのポットなのだ 「生きてるよ 私たちはこんな暮らしをしているよ」と子供たちに向けて発信し続けているのだった メールも電話もあるのだから なにもブログなどと回りくどいことをしなくてもとも思うのだが いくらなんでも「今日も生きてるよ」とは電話しにくいのだった ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-27 10:05
おっ思い出したぞ
先日の研修会の講師の 谷弥兵衛先生については いつかどこかでお話を聴いたことがあるのだが それが何時 何処なのかが思い出せなかった おりふし考えて ついにそれが民俗博物館の講演会だったことを思い出した 大分の昔のことだ 場所は民博の講義室だった そのときは 吉野杉の樽に灘や伏見の酒 それから醤油などが詰められて 海上を船で江戸に運ばれ 「下り物」として珍重され 使用済みの空き樽はリターナブル容器として 江戸や江戸近郊で成長しつつあった酒・醤油などの醸造業で繰り返し再使用されたのだという話だった そこまで思い出して 念のために日記-マイブログで検索したら 2007年11月20日の歴史地理の会でもお話を聴いているのだった そのときの内容は先日の研修会のときのお話とほぼ同内容だった 人間の記憶なんてと馬鹿にしてはいけないのだなぁ さて 昨日は平成23年度の山の辺学講座 最後の日だった 講師は天理大学の谷山正道先生 間に合うようにと早めに家を出たのだが 会場の駐車場は満杯で車が置けないのだった 近くに路上駐車しようかとも思ったのだが 断念して帰って来たのだった 最後の講座だということ 講師が谷山先生だということで 心残りだったなぁ ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-26 16:40
吉野林業史
昨日の研修会は 只今古文書の実習で作業している大和下市の永田家の文書に関連して 吉野林業の研究者である谷弥兵衛氏が講師だった テーマは吉野林業 近世編 講師の谷弥兵衛氏は1934年に奈良県吉野郡小川村(現在は東吉野村)に生まれ 1957年同志社大学経済学部を卒業して 奈良県下の中学校教員をされたのだという 氏は その教織の合間に吉野林業史の研究をされ 1995年に定年で退職されたのを機に 大阪市立大学大学院経済学研究科前期博士課程に進学され 1998年同課程を修了されたのだという 著書は「近世吉野林業史」他がある 氏の生家自体が林業を経営されていたので 吉野林業の最盛期とその後の凋落を その目でしっかりと見て来られたのだという たしかに日本の復興とその後の発展の時代には 木材需要が旺盛な時期があって 吉野の林業家の財布が日本の株価を左右したことから「吉野ダラー」などと言う言葉まであったのだった この谷弥兵衛先生には 以前にもお話を聞いたことがあるように思うのだが それが何時 何処だったのか まったく思い出せないのだった いよいよ来るべきもの〈痴呆〉が近づいて来たのかなぁ さて ついでに書庫に行って 元華厳宗管長にして東大寺別当だった平岡定海師(昨年11月に亡くなられた)の 「東大寺辞典」で「公慶道」を調べたのだが載っていなかった どうも「公慶道」なんて はっきりとした道筋があったわけではなくて 観光ガイドに 意味ありげに 情緒的に使われた言葉ではないのだろうか 奈良に暮らしていて 東大寺などにもよく行くのに これまで「公慶道」なんて道が在ることを知らなかった 多分知らなくてもいい程度の言葉のように思うのだった ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-25 10:23
古文書整理実習
昨日は毎月一回の古文書整理実習の日だった 奈良市史料保存館の永田家寄託文書の整理も明治期が終わって大正期に入ったのだった いつものようにテーブルに薄葉紙を敷いて その上に文書の束をほどいて拡げていく 大正五年~六年に吉野鉄道を使って木材を運んだ伝票だった その伝票を包んでいたのは大正五年の日付の朝日新聞だった この古新聞も貴重な古文書の一つだから 丁寧に埃を落としてたたみ カードを作り バーコードを貼り付けた「しおり」を挟み込んだ そのあと木材の送り状の束を算えて それぞれにパソコン入力用の番号を入れたしおりを作って挟み込んでいった いつものメンバー七人の内 一人が休んでいるから作業しているのは六人 初めはおしゃべりを楽しんでいたのだが 次第に時間も過ぎてゆき 2時間の作業時間内に仕事が終わりそうもないことが明らかになり だんだんみんな焦ってくるのだった そして束の半分ほどを残して終了 残りは来月だ さて 読み終えて返した本は NHK出版新書 勝川俊雄「日本の魚は大丈夫か 漁業は三陸から生まれ変わる」と集英社新書 横井則彦「先端技術が応える 中高年の目の悩み」の2冊 そして新しく借りた本は 角川学芸出版 中野三敏「古文書入門 くずし字でおくのほそ道を楽しむ」の1冊 ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-24 10:17
夜の訪客
昨晩10時過ぎのこと テレビでサッカーのオリンピック予選を見ていたとき 玄関前で誰かが唸っているのに気づいた 耳を澄ますとどうも酔っ払いみたいだ その内にドアを開けようとしてガチャガチャやりだした 誰が何をしているのか確かめようと ドアの覗き窓から見たのだが見えない 家内が脅えているので 110番に電話して来て貰ったのだが 電話してから到着までに間があったので 警官2名が来たときには 訪客はドアが開かないことであきらめたかして 立ち去ったあとだった 警官に状況を説明し そのあと警官は念のためにと周囲を調べて帰ったのだった 近頃は理由のよく判らない犯罪が多い 迂闊にドアを開けて刃物で切りつけられたりしたら目も当てられないことになる 相手が確認出来ない時は絶対にドアを開けてはならない そして110番することだ 警察は市民を守るためにあるのだから ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-23 11:17
陽だまりでうたた寝
若かったころには 老人は何もすることもなく 日がな一日陽だまりでうたた寝をしているものだと思っていた べつに身近にそんな老人がいたということでもない ただ「老人」という言葉から つらい仕事を離れ 憂き世のしがらみから離れて ただのんびりしているものと想像していたのだった しかし 自分がその「老年」になってみると 事はそんなに甘いものではない ひねもす陽だまりでうたた寝なんて それが出来たらなぁ 幸せだろうなぁ という「幸せな老年像」に過ぎないのだった 現実の「老年」は 貧困と疾病の恐怖と なんやかやの多忙のなかで辛うじて生きているのだった とにかく老年は忙しいのだった 老人だからといって じっとしていて飯が食えるわけではない 毎週預金を引き出して 買い出しをして 炊事をして 風呂を沸かして 掃除して 洗濯をしてと とにかく人として生きて行くための最低のことは自分でしなければならないのだった しなくて良いのは(免除されていることは) 生計を立てるための労働だけ ただこれは働きたいと言っても 働けるところがないのだった 働きたくないのではなく 社会から締め出されているというのが正しいのだった さて 今週の月曜日には講座「万葉文化をよむ」を聴きに行き 火曜日には運転免許証の更新に行き そして 明日・明後日は二日続きの古文書の講座があるから 間の本日は 朝からスーパーに食料の買い出しに行ってきたのだった 老人が日向ぼっこをして暮らせる社会というのは あり得ないユートピアなのだろうか 幻影なのだろうか ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-22 13:59
公慶道
昨日のテレビ囲碁対局の準々決勝第3局は 注目の女流棋士謝依旻女流本因坊とこれも注目の羽根直樹碁聖の対戦だった そして解説は趙治勲二十五世本因坊という最高の取り合わせだった 勝負事は何でも「構想力」が大事で その布石から勝負が懸かるのだった 切り結んで 力ずくで相手の石を殺すという山賊の碁は昔のこと 現代の碁は冷徹な地取りの碁だ 相互に一手ずつ最善手を打ち合い その結果を競うのだった 昔の手に汗を握る殺し合いなら見ていて楽しかったのに 現代の地取りの碁は見ていてこれほど辛いものはない 伯仲している場合はなおさらそうなのだった そして構想力に一歩勝った羽根碁聖の地合が次第に良くなって 謝本因坊は必死の反撃を試みたが力およばず投了したのだつた 残念 さて 対局以上に面白かったのは趙本因坊の解説だった 「置いて見ましょうか」と言って 大石の生死を最後まで大盤の上で解説してくれたのだった それは棋力の高い人も また棋力の低い人も 皆が納得する解説だった 趙本因坊は解説者としても超一流なのだった さてさて 本題の「公慶道」だが これはやはり2009年にNHKから放映された「歴史秘話ヒストリア-奈良の大仏奇跡の復活劇-」で有名になったものらしいと判った 残念ながらテレビを見ていないので傾城屋が「公慶道」の途中に在ったのかどうかは判らない しかし「公慶道」をしらべると 公慶上人が居住していた竜松院を中心とした東大寺境内の小径のことのようだ 当時傾城屋が在ったのは 東大寺を出て興福寺を抜けて猿沢の池に降り さらにその南方の南市の辺りだった それは東大寺境内の小道も道であるからには外の大道と繋がってはいる 公慶さんも勧進にたびたび南市のあたりには通ったことだろうが 公慶道をそこまで拡大するのはどうだろうか 違うように思うがなぁ ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-20 10:44
山の辺学講座
「傾城」は 漢書光武李夫人の「北方有佳人 絶世而独立 一顧傾人城 再顧傾人国」から出た語で 美人の色香におぼれて城や国を傾け 滅ぼすことをいうのだとある このことから遊女をかかえておいて客に遊興をさせる家 女郎屋 遊女屋を傾城屋とよぶようになったのだという なお 傾城は「契情」とも書くらしい 昨日土曜日は山の辺学講座の日で 講師は天理大学教授の谷山正道先生だった テーマは公慶上人の東大寺大仏並びに大仏殿の再建だった 公慶上人は1648年に丹後國宮津で鷹山頼茂(よりもちと読む)の七男として生まれ 三歳のときに奈良の生駒の高山に移り住んだ このことから公慶の出自は宮津とされているのだが 鷹山家はもともと高山の領主の家筋だったのだという 十三歳で東大寺大喜院の英慶に就いて出家し 同寺竜松院に住した この頃の大仏殿は1567年の兵火で焼失したままで 大仏も火熱で半ば融け崩れた状態だった 1683年 大仏と大仏殿の再建を発願した公慶上人は 翌年幕府に願い出て勧進の許可を得て 諸国に勧化を進めた そして1686年から仏体の補修に着手し おおよそ6年をかけて 1692年に大仏開眼に漕ぎつけた この総費用は1万1千両余 すべて零細な喜捨の積み重ねであった この後 大仏殿の再建を目指してふたたび幕府に出願 幸いに護持院隆光上人や桂昌院の助言も得られて 1994年将軍綱吉に拝謁し 諸国勧化の便宜を与えられた 1705年大仏殿上棟式を行い 将軍に礼を言上すべく江戸に向かったのだが 大仏殿の落成を見ずに同年江戸で没した さて その生涯を大仏と大仏殿の再建に捧げた公慶上人だが 公慶上人には隠された意外な一面があったのではないかと 講座の終わったあとの質疑で質問が出た それは普段公慶上人が歩き回っていた道を公慶道と言ったのだという その公慶道に傾城屋が含まれていたという 質問したおじさんを見るのに 文献を調べたとか伝承をあたったとかいう印象ではないのだった 思うにどうもエヌエッチケーのテレビヒストリアかなにかでそんな話があったものらしい 谷山先生もこんな質問は予想もしなかったらしく 図書情報館にでも行って 公慶上人の伝記を読みなさいとかわされたのだった しかしまあ熱情家の公慶上人のこと 傾城屋に勧化に通っていたということもなくはないのだろうなぁ ▲ by ikutayasuhiko | 2012-02-19 10:06
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